万博へのテイクオフ
1967年7月31日、鳥取空港が開港した。羽田から到着した1番機の側面には、桜をかたどった大阪万博(EXPO‘70)のシンボルマークが掲げられていた。(写真の来賓は、右から古井喜実、赤沢正道、内海清温)
万博の顔 「太陽の塔」
大阪万博のシンボル「太陽の塔」は、芸術家・岡本太郎のデザインによるものである。人間の尊厳と無限の進歩、発展を表現したもので、大屋根を貫くその姿、正面の「太陽の顔」に来場者は圧倒された。
県立博物館の開館
久松山下鳥取城跡内の旧公設グラウンド跡に、「地方文化の殿堂」として県立博物館が建設された。写真は1972年10月1日に撮影されたもので、開館式を前に、入口付近に入場者が列をなしている。
鳥取砂丘こどもの国の開園
明治百年記念事業として計画された「こどもの国」は、着工から5年後の1973年5月5日に開園した。開園式では、子どもたちの代表によるテープカットが行われ、鼓笛隊の行進が賑やかに行われた。
砂丘館の展示風景
6つのドームがつながる砂丘館は、砂や砂丘に関する展示館である。鳥取砂丘のおいたち、世界の砂漠、砂の科学として風紋などをテーマにした展示があり、プラネタリウムが併設されていた。現在、砂丘館はすべて撤去され、広場となっている。
児童館小ホール
大小2つのホールに音楽、人形劇、集会などが利用できるスペースがある。大ホールには音響・照明装置が、小ホールには図書室や遊具が設置され、雨天や冬季でも利用可能な施設となっている。現在、これらのホールは撤去され、改めて多目的ホールが別の場所に設置されている。
遊具の道
1㎞に及ぶ遊具の道は、遊びながら園内を一周できるようになっている。チャレンジコースとちびっこコースの2つがあり、飛ぶ、渡る、ぶら下がるなど、子どもたちが身体全体で遊べる工夫がなされている。
如来原倉吉線の工事
県道如来原倉吉線の工事風景。この路線は日野郡江府町宮市を起点に南大山大橋、御机、鏡ヶ成、新小屋峠(990m)を越えて笹ヶ成に至り、東大山大橋、明高、山守、関金を経て倉吉市鴨河内に至る約37㎞の一般県道である。如来原は小字名で、明治期に日野郡の鉄山師・近藤喜八郎が新田開発をしたところで、現在の江府町宮市原にあたる。
県立船上山少年自然の家の建設
船上山少年自然の家は、1977年7月1日に開所した。200人収容できる宿泊室(和室18室)、体育館、リクリエーション室、大・小の研修室、浴室などがあった。小中学生は無料で、その他は有料となっていた。写真は開所前に撮影されたものである。
境水道大橋の開通
境水道大橋の開通は、1972年7月22日である。全長709m、幅8mで、当初は有料橋だった。2002(平成14)年7月、開通30周年を機に橋の管理は鳥取・島根両県に移管され、料金は無料となった。
石こけしづくり
石こけしは、日野川の玉石に彩色を施した日野郡の民芸品。奈良県出身の樋口圓石が考案し、1970年代には地元の主婦らによって盛んに作られた。万博にも出品され、欧米に輸出されるほどの人気を博した。
コンピューター時代の到来
1970年1月9日、県情報センターに最新の電子計算機が導入された。これにより、それまで13人の職員が1カ月かけて行っていた県関係職員1万1千人の給与計算が、3時間で行えるようになった。
鳥取砂丘でのスキー
鳥取砂丘は起伏が大きく、また砂の粒子が細かいことから、昭和初期にサンドスキーが行われるようになった。写真では砂丘一面に雪が積もり、スキー場さながらのにぎわいを見せている。
消費生活センターの展示室
1971年、生活用品の相談窓口として県立消費生活センターが米子市久米町に仮開所した。相談室、展示室、研修室、テスト室が設けられ、食品添加物を調べる吸光分析装置や物質鑑別器も備えていた。
弓浜のイリコ干し
鳥取・島根両県にまたがる美保湾での光景。海辺で女性たちが干しているのは、近海で獲れたイリコ(5㎝の小イワシ)である。美保湾の潮風がイリコ干しに適しており、一面に簀が並べられている。
パスポートの発給
県庁で旅券(パスポート)発給を所管していた総務管財課での業務風景。机の上には旅券が重ねて置かれている。海外渡航の増加に伴い、前年の1970(昭和45)年12月から数次往復用旅券の発給が始まった。
太平マーケットの落成
太平マーケットは、1951(昭和26)年に鮮魚の小売業者が鳥取駅前の太平線通りに開業したのが始まり。1971年10月19日の未明、駅前商店街から出火し、太平マーケットを含む約200の店舗が焼失した。
三朝町の季節分校
三朝町立俵原分校での授業風景。俵原は標高800mの集落で、冬は積雪のため本校(三朝東小学校)までの通学が困難となる。そのため、冬の期間には「季節分校」が開校し、集落の児童の学びの場となった。
大山国体
第27回国体冬季大会スキー競技会は、1972年2月20日から4日間にわたり、大山の豪円山スキー場で開催された。写真は男子リレー競技の様子で、鳥取県勢は40都道府県中13位であった。
ビニールハウスプール
1970(昭和45)年に作られた国府町(現鳥取市)宮ノ下小学校のプールの写真である。利用効率を高めるため、ビニールハウスの上屋がある。通常より水温が高く、天候にも左右されない利点があった。
新設された倉吉駅
倉吉駅は1903(明治36)年の開業で1970(昭和45)年軽便鉄道(後の倉吉線)が開通すると、倉吉駅は上井駅に改称された。1972年には再び倉吉駅となり、鉄筋コンクリート造りの駅舎が新築された。
移動図書館「はくと号」
移動図書館「はくと号」が巡回を始めたのは1953(昭和28)年である。写真の車両は、県が1964年に購入したもので800冊の本を積むことができた。通常のコースのほか、へき地巡回も行っていた。
衆議院議員選挙の物資輸送
第33回衆議院議員総選挙(1972年12月10日投開票)に向けた物資輸送のため、県庁を出発するトラックとそれを見送る県職員。衆議院議員総選挙の投票日は、この選挙から日曜日に固定された。
鮮魚店での乳母車
鳥取市片原にあった鮮魚店の店先での光景。幼児を乗せた乳母車が時代を感じさせる。1971(昭和46)年から74年にかけて、全国の出生数は毎年200万人を超え、この世代は「団塊ジュニア」と呼ばれた。
瓦町のロータリー
鳥取市瓦町ロータリー付近の写真。ロータリーの中心には「交通安全」の看板があり、ソテツが植わっていた。後方に見える食品卸売業の「岡田商店」は現在も同じ場所に店を構える。
仁風閣での防火訓練
1974年1月26日の「文化財防火デー」に行われた仁風閣での放水訓練。仁風閣は1949(昭和24)年から1972年まで、県立科学博物館として利用された。館の右前に展示されるのは法勝寺電車の車両である。
緊急電話の登場
1970年代に入ると、公衆電話の種類も増えた。赤電話、ピンク電話、青電話、黄電話、新型青電話があり、110番・119番のかけ方も異なっていた。写真の電話には上部に緊急通報装置がある。
南勝線起工式
南勝線は、山守駅(関金町南谷)から中国勝山駅(岡山県勝山町)を結ぶ陰陽連絡鉄道で、構想は1891(明治24)年に遡る。起工式は勝山小学校で開催されたが、用地取得や工事は行われず、幻の路線となった。
蚕業試験場
蚕業試験場は、絹糸の原料となる蚕とその飼料である桑の品種改良を研究する機関で、1973(昭和48)年倉吉市大谷茶屋に新築移転した。70年代に入ると輸入生糸が増加し、県内の養蚕業は衰退していった。
田中角栄の記者会見
1974年6月、時の内閣総理大臣・田中角栄(1918~1993)が来県した。写真はその時の記者会見の様子で、間もなく発足する国土庁の課題などを説明した。ロッキード事件で逮捕される2年前のことである。
県職員のボーナス支給
県職員へのボーナス支給のため、出納室の職員が紙幣を数えている。当時は振込ではなく、現金支給であった。この頃の紙幣は一万円札が聖徳太子、千円札が伊藤博文、五百円札が岩倉具視である。
蒸気機関車の解体
国鉄米子鉄道管理局後藤工場(現JR西日本後藤総合車両所)での蒸気機関車の解体の様子。ディーゼル機関車の普及により、県内では1973(昭和48)年に蒸気機関車の運行が終了し、車両の多くは解体された。
旧鳥取藩の米蔵
東伯郡羽合町橋津(現湯梨浜町)にある旧鳥取藩の米蔵。大坂に送る米を保管するため、藩が17世紀半ばに建てたものである。15棟あった蔵の内、3棟が現存している。写真左の大松は伐採され、現在はない。
新聞復刊要求パレード
『日本海新聞』(現在の『日本海新聞』の前身)は経営難で1975年6月5日付で発刊休止となった。9月から7カ月間、日本海新聞社労働組合が「郷土紙の灯を消すな」を合い言葉に『ミニ日本海』を発行した。
30年ぶりの大雪
鳥取市新町付近の様子。1976(昭和51)年12月から翌年2月にかけ、鳥取市は30年ぶりの大雪に見舞われた。2月18日には鳥取市で105㎝の積雪を記録し、除雪車194台が出動して除雪作業にあたった。
因幡自転車道の開通
千代川に沿って因幡自転車道が開通(一部)したのは1977(昭和52)年4月9日である。開通式に合わせて、千代河原で交通安全教室も開かれた。自転車道の全線開通は1980年で、総延長は20.3㎞であった。
真教寺動物公園
鳥取市戎町の真教寺公園は、1952(昭和27)年の鳥取大火の復興事業の一環として1965年に整備された。1976年には久松公園にあった動物舎が移転し、今でも猿・ウサギ・クジャクなどが飼育されている。
鳥取市防災訓練
「午前9時50分、震度6の地震が発生」との想定で行われた1978(昭和53)年の市の防災訓練。21の自主防災会を含め、3万7千人が参加した。鳥取大丸は、建築家黒川紀章が設計し、1975年に竣工した。
交通管制センターの運用
1979年4月1日、県警察本部交通管制センターの運用が開始された。交通渋滞に関する情報処理や交通信号機の集中制御を行った。写真は2月6日に撮影されたもので、試験運用の様子と思われる。
倉吉総合看護専門学校生
倉吉総合看護専門学校生による看護実習の様子。同校の起源は1931(昭和6)年開設の厚生病院看護婦養成所であり、1977年には2つの看護学科と保健助産学科が設置された。
動く消費生活センター
県立消費生活センターの巡回車「くらしの泉号」が導入されたのは、1974年3月のことである。「動く消費生活センター」として、巡回先で消費生活相談や商品テストの実演、啓発活動などを行った。
標準価格制度の導入
石油危機をきっかけとした物価高騰を受け、1974年1月、灯油やLPガス、トイレットペーパー、ちり紙を対象に標準価格制度が導入され、店頭では標準価格と販売価格の両方の表示が義務付けられた。
物価高騰と不用品セール
1973(昭和48)年秋の石油危機とその後の物価高騰を受け、消費者の考え方も、使い捨てから消費の抑制・節約へと大きく変化した。物を大切にすることが再認識され不用品セールも開かれるようになった。
横綱琴櫻と石破知事
1973年1月24日、琴櫻傑將は県出身力士で初の横綱に推挙された。写真は石破二朗知事に昇進を報告した時のもの。琴櫻は、強烈な立ち合いから「猛牛」の異名をとり、相撲ファンを魅了した。
平林知事、初登庁
1974年3月24日の県知事選挙で平林鴻三前総務部長が当選した。写真は、その4日後に県職員から拍手で迎えられ、挨拶をする平林知事をとらえたものである。知事は「県民の福祉向上」の訓示を行った。
鳥取駅高架工事
鳥取駅の高架事業は、朝夕のラッシュ時の踏切での交通渋滞の解消や南北市街地の一体的な発展などを目的に、1970(昭和45)年に着手。8年の月日を経て、1978年11月8日、線路の切り替えが行われた。
鳥取-東京直行便
鳥取空港が開港した1967(昭和42)年、当初鳥取-東京便は、米子-東京間の一部として運航された。東京便は同44年に廃止され、10年後の1979年、YS-11型機による1日1往復の直行便の運航が実現した。
鳥取-東京便の就航
鳥取-東京間の直行便が就航したのは、1979年8月10日である。鳥取空港のターミナルビルの壁面には就航を祝う横断幕が掲げられ、一番機の到着を待つ大勢の報道関係者や出迎えの人々の姿が見える。
鳥取空港の待合ロビー
鳥取空港の待合ロビーの様子である。中央奥には発券・予約カウンターがあり、航空機の時刻表が掲示されている。壁面には全日空(ANA)創業当初の社章「ダヴィンチマーク」が掲げられている。